それは、日曜日の深夜、日付が変わろうかという時間帯に起こりました。映画を一本見終わり、就寝前にトイレに入った私は、レバーを捻った直後に異変を察知しました。ゴポゴポという不吉な音と共に、便器の水位が下がるどころか、ゆっくりと、しかし確実に上昇し始めたのです。能勢町では漏水した水道修理を配管交換しても一瞬にして血の気が引き、頭の中は「どうしよう」という言葉で埋め尽くされました。賃貸アパートの深夜、万が一にも溢れさせて階下に迷惑をかけることだけは避けなければならない。この強烈な焦燥感が、その後の私の判断を大きく狂わせることになるとは、その時は知る由もありませんでした。 パニック状態の私が真っ先にしたことは、スマートフォンの検索窓に「トイレつまり 深夜 安い」と打ち込むことでした。画面には「最安値880円!」「最短15分で駆けつけます!」といった、魅力的な言葉を並べた広告がずらりと表示されます。この台所専門のつまりを修理した三木市でも冷静に考えれば、そんな価格で済むはずがないと分かるのに、当時の私は「とにかく早く、少しでも安く」という一心で、検索結果の一番上に表示された業者に、何の疑いもなく電話をかけてしまいました。電話口の男性は眠そうな声で対応し、料金については「現場を見ないと何とも言えませんね」と繰り返すばかり。それでも「すぐに行けますよ」という言葉にすがりつき、私は来訪を依頼してしまったのです。 約束通り20分ほどで到着したのは、会社のロゴも入っていない普通の乗用車でした。降りてきたのは、作業着ではなくラフな私服姿の若い男性。名刺の提示もなく、挨拶もそこそこに便器を覗き込むと、彼はやおら深刻な顔つきでこう言ったのです。「ああ、これは重症ですね。管の奥で何かが完全に詰まってる。高圧洗浄機じゃないと無理です」。そして、手元のタブレットを操作し、私に見せてきた見積もり画面には、信じられない数字が並んでいました。「キャンペーン適用で、三十万円ですね」。一瞬、言葉の意味が理解できませんでした。三十万円?トイレのつまりを直すだけで?私が呆然としていると、彼は畳み掛けるように「このままだと排水管が破裂して、マンション全体の問題になりますよ」「今すぐサインしてくれれば、すぐに作業に取り掛かれます」と、巧みに不安を煽り、決断を急かしてきました。その高圧的な態度と、密室での二人の状況に、私は恐怖すら感じ始めていました。 しかし、その法外な金額が、逆に私のパニック状態だった頭を少しだけ冷静にさせてくれました。「すみません、あまりにも高額なので、一度考えさせてください」。震える声でそう告げると、彼の表情は一変。「は?もう来ちゃってるんですけど。じゃあ出張費とキャンセル料で三万円もらいます」。あまりの理不尽さに怒りがこみ上げましたが、これ以上関わるのは危険だと判断し、私は財布から三万円を支払って、彼に帰ってもらいました。たった数十分の出来事でしたが、心身ともに疲弊しきっていました。しかし、同時に「このままではいけない」という強い気持ちも芽生えていました。私は気持ちを切り替え、今度は広告やうたい文句に惑わされず、別の視点で業者を探し始めました。市のホームページに掲載されている「水道局指定工事店」のリストを見つけ、その中から近所で長年営業している、古くからある水道設備会社に電話をかけたのです。電話口に出た年配の男性の落ち着いた対応と、「まずは原因をしっかり調べて、作業前に必ず料金をご提示しますから」という言葉に、私はようやく一筋の光を見出した気がしました。 翌朝、約束の時間ぴったりに到着した作業員の方は、清潔な作業着に身を包み、会社名と名前が書かれた名刺を丁寧に差し出してくれました。彼はまず、私から昨夜の経緯をじっくりとヒアリングし、その後、便器の状態を慎重に確認し始めました。そして、手動式のワイヤー器具を使い、慎重に管の中を探っていきます。数分後、彼が引き抜いたワイヤーの先には、意外なものが引っかかっていました。それは、私が数年前に節水目的でトイレのタンクに入れていたペットボトルが劣化し、その破片が内部の部品に絡みついて正常な水の流れを阻害していたものでした。彼はその原因を写真に見せながら分かりやすく説明し、「これなら高圧洗浄は必要ありません。部品の交換と詰まりの除去で、一万五千円です」と、明朗な見積もりを提示してくれました。その金額と、昨夜の三十万円とのあまりの差に、私は言葉を失いました。作業は手際よく進み、三十分後にはトイレは完全に元通りになりました。彼は最後に、今後の注意点まで丁寧にアドバイスしてくれ、爽やかに帰っていきました。 あの深夜の悪夢のような体験は、私に大きな教訓を残しました。緊急時こそ、焦りは禁物であること。「安さ」を謳う広告の裏には、巧妙な罠が隠されていること。そして、本当のプロフェッショナルとは、技術力はもちろんのこと、顧客の不安に寄り添い、透明性の高い説明と誠実な対応ができる人なのだということです。あの三十万円の見積書は、決して安くはない授業料となりましたが、それによって得られた知識は、これからの私の生活を守る上で、何物にも代えがたい財産となったのです。
三十万円の見積書が教えてくれた本当のプロの選び方